生体複雑情報部門


 構成メンバー

部門長 都甲 潔(九州大学・システム情報科学研究院・教授)
甲斐 昌一(九州大学・工学研究院・教授)
林 初男(九州工業大学・生命体工学・教授)
林 健司(九州大学・システム情報科学研究院・助教授)

 概要

 生体は典型的な複雑系であり、その情報採集、計測、処理、解析の全てが複雑系科学の範疇に入る。これまで、本研究グループでは、味覚情報の計測解析、自己組織化を応用した味覚センサーの開発(図3)や神経細胞のカオス現象、脳内のカオス確率共鳴現象の発見とこれらが脳の認知や記憶などの高次機能と深く関連することなどを明らかにしてきた(図4)。これらの成果をもとに、視覚や味覚などの複雑感性情報の評価法の開発やそれが脳内でどのような機構を通して認識・処理されているか、そのアルゴリズムを複雑系の立場から研究する。この観点に立てば複雑な機能や情報処理能力を有する効率の良い構造体としての脳・感覚系が解明されることが期待されるだけでなく、新たなアーキテクチャを与えうると期待でき、複雑工学部門との研究交流やフィードバックも期待される。



Nature(May 2002) PhysicsWorld(July 2002)

図4 脳における本部門の成果


 研究ハイライト

大学院システム情報科学研究院 電子デバイス部門 教授   都甲 潔 

インテリジェント味・匂いセンサの開発
 味や匂いを測ることは可能であろうか.「測れますよ!」と答えても,半信半疑の方も多いであろう.つまり,味,そして匂いは個人によって左右されるところが大きく,生物の感覚の中で最も生物的ともいえる感覚であり,現時点では多分に主観的量といえる.他方,長さや時間といった量は,物差しや時計を使って容易に知ることができる.しかしながら,主観的長さや時間も厳然として存在するわけで,例えば,私たちは主観的時間と客観的時間を上手に使いこなして生きているのである.このような状況の中,味や匂いの世界はようやく,感性バイオセンサの開発によって,客観的な単位系を持つ世界,つまり味や匂いのものさしが作られる段階にさしかかっている.
 ここでは味覚センサについて紹介しよう.味を測るという意味で「味覚センサ」は,生物の持つ味覚を再現するセンサ,といった意味と理解してもらえば良いだろう.周知のように,人間の五感は視覚・触覚・聴覚・味覚・嗅覚である.本研究室の前身である九州大学工学部電子工学科電子物性工学講座では12年前ほどから味覚センサ開発を全面に押し出し,計測器メーカーのアンリツ(株)とタイアップして,精力的に研究・開発を進めてきた.本センサは,従来のセンサと全く異なる設計思想を有する.それは単一の化学物質への応答ではなく,あらゆる化学物質へ応答を示すという広域選択性(Global selectivity)なる概念をもとに,脂質の膜を「味→電気量」のトランスデューサに採用している.
 例えばミネラルウォーター,これって味があるのだろうか.味覚センサでミネラルウォーターを測ると容易にソルティー(塩辛い),ビター(苦い)などといった味の表現ができる.実際に味わうと各種ミネラルウォーターの識別がなかなか難しい.また図11に示した通り,私たちが味わう感覚と同じような感覚量を軸とした味の地図が,ビールで得られている.味覚センサは人が再現性よく表現できない味を定量化でき,人の舌の感度を超えている.

図11. 味覚センサーによるビールの味分布

 味覚センサ(アンリツ(株)製SA401)は,長野県で開催された信州博覧会に出展され,参加者と日本酒の銘柄当てを連日行い,3カ月間同一の膜で無事完走した.例えば,大吟醸酒,純米酒,本醸造酒,アルプス吟醸酒などを容易に識別することができ,その味の特徴を表現することも可能である.
 味覚センサは全国の食品メーカー,医薬品メーカー,食品工業試験場,食品総合研究所等に普及しつつあり,各地で味覚センサファンとでもよぶべき個性的人材が現れてきている.農水省の複数のプロジェクトで,味覚センサが食品の味の定量化,品質保証などに使われ始めている.味覚センサ開発は,電子材料物性工学,生化学,計測工学を専門とする,また人格的にもユニークな人材が集まることで初めて成功したものである.味覚センサや匂いセンサは人に優しい,人の感性に立脚した技術の一例であり,この21世紀社会においてますますその必要性は増すであろう.

ニューラルを用いた複合情報パターンの単一基本情報への分解・抽出方法の開発
 私たちは,種々の外界情報をキャッチし,その中から有意義な情報を選別・抽出し,それに従い行動している.その場合,情報をキャッチするのは五つの感覚で,視覚, 聴覚,触覚,味覚,嗅覚である.これら五感の受容部(センサ)はそれぞれ,眼,耳,肌(手などの指),舌,そして鼻である.このような多数の異なる種類の情報を私たちはどのように処理して判断しているのでだろうか.これらの情報はセンサ出力からの複合的な情報パターンを構成する.複合パターンから,例えば,好き,嫌い,きれい,おいしい,魅力ある,買う,等の認識と判断をする.また相互の情報は決して独立ではなく,ファジィ的に関係している.このような複合パターンはいかなるメカニズムで処理されているのだろうか.またそれを工学的に実現することはできるのだろうか.近いうちに実現するであろう月基地に五感を転送するといった人の感性に立脚した時代では,このような複合情報の単一基本情報への分解,抽出そして転送技術の開発が望まれている. そこで本研究では,まず第1歩として,ニューラルネットワークを用いて,味覚と嗅覚に由来するセンサ出力パターンの個々の意味ある情報への分解,抽出そして定量化を試みる.例えば,甘味,苦味,酸味や香ばしい香り等への分解と,その結果生じるおいしさの定量化である.さらに視覚や触覚情報を加え,人の感性にせまる.このようなインテリジェント情報処理システムの開発は,九州発のベンチャー企業創業の可能性も秘めている.

有機電子機能デバイスの開発
 21世紀を担う電子材料の一つとして,これまでのシリコンに代わる有機材料がある.生物が持つ様々な分子機械は有機材料素子の典型例であり,それから想像できる通り,有機材料は軽量,フレキシブルという特性に加えて,金属にはない多様な性質を期待できる.
 ラングミューア・ブロジェット(LB)膜法は,有機分子を任意の精度で並び替えることができる技術である.当研究室では,脂質分子やタンパク質分子を用いて集積化機能素子を開発している.一般に有機LB素子は用いた分子材料によりスイッチング機能,導電,絶縁,光電変換機能を有するだけでなく,味や匂いなどの化学物質の情報を電圧や光へと変換するといった高度のインテリジェンスを有することが,最近見い出されている.また,化学物質に応答して動くケモメカニカル材料と化学物質情報の認識能を持つ有機エレクトロニクス材料を組み合わせた,分子エレクトロニクス領域のマイクロマシンの開発にも着手している.

△先頭へ


脳を模倣した記憶システム

九州工業大学 大学院生命体工学研究科 脳情報専攻 教授
  林 初男

1. 脳のカオス活動の発見から計算機モデルの構築へ
我々が世界に先駆けて1個の神経細胞のカオス活動を発見したのは約20年前のことです。その後、日本のみならず世界中でニューロカオスの研究が進められてきました。現在は、基礎研究から応用研究へと変貌を遂げながら、なお活発な研究が続けられています。
このような研究の流れの中で、たくさんの神経細胞から成る脳のカオス活動が発見されるまでには少し時間がかかりました。我々がラットの海馬や新皮質第1次体性感覚野のカオス活動の確実な証拠を発表したのは、7,8年前のことです。
この5,6年間は、動物実験で得られた神経細胞や脳のカオス活動に関する研究成果に基づいて、海馬の計算機モデルを構築することに力を注いできました。その結果、非常に多くの神経細胞で構成されているにも関わらず脳がカオス的な活動を起こす機構を理解できるようになってきました。さらに、脳の記憶機能を支えるシナプス結合を可塑的に変化させたり、入力信号の強さ、周波数、パターンなどを変えることによって、脳にカオス活動を起こしたり、止めたり、自発活動の性質を変えたりというような制御ができることも次第にわかってきました。

2. 海馬の確率共鳴と記憶モデル
海馬は記憶や空間認知と関係した古い皮質です。海馬が破壊されると、記憶や空間認知ができなくなります。このような海馬は解剖学的に4つの領野に分けられています(図1)。CA3と呼ばれる領野では、錐体細胞が自発的に活動しやすく、また錐体細胞が互いに興奮性と抑制性に結合されていますので、複雑な自発活動や入力信号に対するカオス応答などを起こします。それに対し、CA3から投射を受けているCA1と呼ばれる領野は、錐体細胞間の興奮性結合が非常に少なく、静かで、海馬の出力層に当たります。一方、嗅内皮質からは貫通路を通じてリズミカルな信号がCA1へ投射されますが、この信号はあまり強くなく、CA1の錐体細胞をほとんど発火させることができません。
CA3からCA1へ投射される不規則な活動と貫通路からの弱い信号の組み合わせを考えたとき、我々は海馬が確率共鳴を起こすのに適した構造と性質を持っていることに気がつきました(図1)。実際、神経生理学的知見に基づいて構築した海馬の神経回路網モデルを用いて、確率共鳴が起こることを明らかにしました(図2)。
CA3からCA1への投射経路であるシャファー側枝(SC)のシナプスが信号伝達効率の長期増強(LTP)と抑圧(LTD)を起こすことはよく知られています。これらのシナプス結合強度を変化させることによりCA3の複雑な活動によってCA1に生じる雑音の強さを制御することができます。LTPが生じたとき雑音強度が適当になれば,確率共鳴によって検出される貫通路信号の空間パターンはシャファー側枝シナプスのLTPの空間パターンと一致し,結果的に記憶パターンが想起されることになります。このアイデアに従って、CA3とCA1を結ぶシナプスに埋め込まれた記憶パターンを確率共鳴によって想起するモデルを作りました(図1)。

図1 海馬の神経回路。海馬の横断面が示されている。△は錐体細胞。各領野の錐体細胞は2次元のネットワークを作っている。CA3の不規則な活動と貫通路からのリズミカルな信号がCA1に投射され、CA1で確率共鳴が生じる。SRで検出された貫通路信号の空間パターンはSCシナプスの空間パターンと一致する。



図2 信号対雑音比SNRのシャファー側枝シナプス結合強度
Wschに対する依存性。典型的なSRの特性を示している。


3. 今後の目標 −脳を模倣した記憶システムの実現−
CA3の複雑な時空活動は、CA3内のシナプス結合の可塑的変化やCA3への入力信号によって制御することができます。また、CA1とCA3を結ぶシャファー側枝シナプスの可塑的変化にはNMDA受容体チャネルが関与しており,CA1錐体細胞の細胞内Ca2+濃度の上昇がLTPやLTD誘導のトリガーになることが知られています。この細胞内Ca2+濃度の上昇はCA3の活動に大きく依存すると考えられます。そこで、CA3の自発活動や入力信号に対する応答を制御し、シャファー側枝シナプスにLTPやLTDを起こすことのできるモデルの構築をめざしています。このモデルの仕組みと上記の記憶想起モデルの仕組みとを統合することにより、海馬を模倣した記憶モデルの実現に大きく近づくことができると考えています。
上記の海馬モデルで生じる確率共鳴や記憶パターンの想起は、脳科学としてはまだ仮説の域を出ていません。我々は、今後、ラットの脳を用いた実験で、信頼性の高い確実な証拠を得ることもめざしています。

A Brain-Like Memory System

Hatsuo Hayashi
Graduate School of Life Science and Systems Engineering
Kyushu Institute of Technology

Hippocampal CA3 causes irregular activity including chaos that causes noisy membrane potentials in CA1 pyramidal cells. The CA1 cells also receive a subthreshold signal through the perforant path (PP). Therefore, we have demonstrated stochastic resonance (SR) that takes place in the hippocampus using a physiology-based hippocampal model. Moreover, we have proposed a memory recall model based on SR. Memory embedded at CA3-CA1 synapses can be recalled as a pattern of detected PP signals by means of SR. We are now developing a model that induces LTP/LTD at CA3-CA1 synapses depending on the complex activity of CA3 to store memory patterns. These models that will be integrated into a noble memory system would contribute to realize a brain-like memory system.


[トップへ]     [先端複雑系科学リサーチコアのページへ(Home)]